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京都市北区の船岡山は平安京の中央を南北に貫く朱雀大路の北方延長上に位置しており、桓武天皇が平安京を造都する際に北の拠点としたことで知られています。そして都を守るために玄武という神さまを封じ込めたことにより、千年以上の長きにわたる長寿の都となったのです。
しかし、船岡山はこれだけにとどまらず、詳しく知るほどに不思議に満ちた小山なのです。
この記事では、異界ともいえる船岡山の不思議な話しを紹介します。
建勲神社立ち入り禁止エリアの「船岡妙見社」と「船岡奥社」
船岡山の中腹には織田信長を祀る建勲神社があります。そして、その境内にあたる南参道の西側から本殿裏側の一帯が立ち入り禁止になっています。
立ち入り禁止エリアは山頂ではありませんが、こんもりとした形状で原生林に覆われた小山になっていて、この場所に玄武大明神が封印されているのは間違いありません。
その証に、南参道の西側(手水舎の裏手)には玄武大神を祀る「船岡妙見社」があり、『船岡妙見社は船岡山の地の神、玄武大神を祭る。(略)』と書かれた立札が建っています。
しかし、この広い立ち入り禁止エリアが玄武大明神を封じ込めた場所だとすると、その大きさは恐竜のような大きさだったのではないかと思えてしまいます。
また、船岡山の山頂近く(山頂東、建勲神社境内)には「船岡奥社」を覗き見ることができるのですが、何が祀られているのかは不明です。
しかし、今宮神社(船岡山の北側に隣接する神社)の御霊会の歴史には『944年(正暦5年)に疫神の為の神輿を設え船岡山に安置し神慮を慰め疫病鎮めを祈った』という記録があることから、何らかの関係があるようです。
山頂の磐座(いわくら)
船岡山はチャートと呼ばれる堆積層(岩盤)でできていて、その走行並びに傾斜方向は愛宕山塊のチャートと一致しており、丹波層群と呼ばれる地層群に属しています。
そのため、船岡山のいたるところに岩盤がむき出しになったところがあり、山頂には奇妙なかたちをした岩が露出しています。これは「磐座」と呼ばれ、古来より玄武の依代(神道用語で、神霊が寄り付く物を意味し、よりしろ/かたしろと呼ばれる)とされています。
この依代には不思議な力が備わっているとされていて、平安建都後はこの場所でいくつもの祭祀(さいし)が行われた記録があります。
その一つが今宮神社の御霊会に関するもので、「日本紀略(にほんきりゃく)」には『都に疫病が流行したため、一条天皇は船岡山山頂に木工寮の作った神輿を置いて疫神を祀り、御霊会を営んだことで疫病の流行が収まった』とあります。
それ以外にも、藤原時平(ふじわらときひら)、菅原道真(すがわらのみちざね)、大倉善行(おおくらよしゆき)らが編纂(へんさん)した「三大実禄(さんだいじつろく)」には、『858年(天安2年)に、都周辺で五穀を食い荒らす害虫が大量発生した。人々は保存していた食料で食いつないだが、その翌年859年(貞観元年)にも同じ害虫が発生し飢え死にする人があふれ、都でも食糧難になったため、天皇が陰陽師に対策を命じた。そして、陰陽師が船岡山の山頂の磐座で祈ったところ害虫はたちまちのうちに消えた』といったものもあります。
なんとも信じがたい話ですが、日本紀略や三大実禄にこのような記録があるということは、船岡山山頂の磐座には何か不思議な力があるのかも知れません。
いたるところに祀られている不思議な石仏
船岡山は、1511年(永正8年)、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦い「船岡合戦」の地であり、船岡公園の横に「応仁永正戦跡 船岡山」と刻まれた石標が建っています。
この石標は「応仁・永正戦」の地であることを示す国指定史跡であるため何も不思議ではありません。しかし、これとは別に船岡山には大小さまざまな石仏や板碑がいたるところに祀られていて、今でも誰かが参拝に来られているようで、いつも「茶湯器」に水が注がれています。
この不思議な石仏や板碑は「船岡合戦」で戦死した者の慰霊ためかと思いきや、そうではなくお墓のない先祖を供養するためのものであり、船岡山が葬送地であった名残なのです。
葬送地であった船岡山
京都には嵯峨の「化野(あだしの)」、東山の「鳥辺野(とりべの)」、紫野の「蓮台野(れんだいの)」という三大葬送地があり、船岡山は蓮台野の一部であり平安時代の初めは風葬地でした。
風葬というのは、人の遺体を火葬や土葬といった方法ではなく、自然の中に安置して吹きさらしにすることで自然に還す葬儀方法で、遺体のまわりには小石などを積み重ねて風葬墓としていました。
ちなみに、船岡山の西側に南北に走る「千本通り」という道路があるのですが、その名の由来は通り沿いに千本もの卒塔婆を並んでいたことから「千本通り」と名が付いたとされています。
このような風葬が行われていた蓮台野(船岡山)であったのですが、後には火葬も行われるようになり、後白河天皇(ごしらかわてんのう)の第一皇子である、後の二条天皇も蓮台野の地で荼毘(だび)に付されたことで知られています。
船岡山の西側には、紅枝垂れ桜で有名な上品蓮台寺という寺院が建立されているのですが、この寺のもともとの役目も、船岡山で荼毘に付された人々の弔いであったそうです。
処刑地として利用された船岡山
船岡山は保元の乱(ほうげんのらん)で敗れた崇徳上皇(すとくしょうこう)の主力として戦った源為義(みなもとのためよし)とその子供たちが、後白河天皇(ごしらかわてんのう)についた源義朝(みなもとのよしとも)の手によって処刑された場所でもあります。
保元の乱とは、1156年(保元元年)皇位継承問題や摂関家の内戦により、後白河天皇方と崇徳上皇方の対立によって起きた戦いで、これに敗れた崇徳上皇は讃岐に流され、後に「三大怨霊」の一つとして知られるようになったのです。
土蜘蛛伝説
船岡山の歴史をたどれば、数知れない人が死にいたった場所であることから妖怪伝説が数多く残されています。その中でもとくに有名なのが「土蜘蛛伝説」です。
それは、蓮台野(船岡山)周辺には、かつて妖怪土蜘蛛が棲んでいて、清和源氏の三代目の源頼光とその四天王が退治したというものであり、その舞台は上品蓮台寺で、墓地には源頼光の墓があります。
【土蜘蛛伝説】
ある夜、原因不明の熱病に冒されていた頼光のもとに法師の姿をした土蜘蛛の妖怪が縄で縛ろうとしていた。驚いた頼光は名刀「膝丸」で切りつけたところ、上品蓮台寺内の古塚に逃げ込んだ。
そして、後を追った頼光の四天王が古塚を暴くと、傷を負った土蜘蛛の妖怪が死肉をむさぼり食っていたのである。四天王がその土蜘蛛を捉え、金串に刺して河原に晒したところ、頼光の熱病はみるみる回復したという。
ちなみに土蜘蛛を祀った蜘蛛塚は現在、北野天満宮の南にある東向観音寺に移され、上品蓮台寺の墓地内にそびえる椋(むく)の老木には土蜘蛛退治にまつわる源頼光朝臣塚が残されています。
昭和の時代は自殺の名所
現在の船岡山は整備が進み、昭和10年には5万6千平方メートル以上の敷地の船岡山公園が開設され、山頂からは京都市内や大文字山、比叡山が一望できる夜景のビューポイントとして知られるようになりましたが、今でも山道を少し逸れるとうっそうとした原生林を見ることができます。
この原生林の中には今でもほとんど人が立ち入ることがなく、昭和の時代は自殺の名所でもありました。また、1984年(昭和59年)5月には元警察官が、十二坊派出所(上品蓮台寺の南にある派出所)の警察官を船岡山に呼び出し、殺害するという悲惨な事件が起きたのも山頂付近です。
この事件以降、十二坊派出所は無人(電話は置いてある)となっているのですが、夜中に通り掛かった人によると、人影を見たなどといった怪談話を聞くようになりました。
現在の船岡山
船岡山は標高112m(比高45m)、周囲1300m、面積2万5千坪の優美な小山で、市街地でありながら緑豊かな自然が今でも保たれていて、1931年(昭和6年)に京都市風致地区、1968年(昭和43年)に国の史跡、1995年(平成7年)に京都府の『京都自然200選』に指定されています。
山頂からは京都市内や大文字山、比叡山が一望できる夜景のビューポイントではありますが、公園内には萩、ツツジ、藤などの美しい草花が植えられているので、昼間に散策するのもお勧めです。