「京都府立宇治公園」は千年の時を超えて滔々と流れる宇治川の中の島(浮島と橘島の総称)。堤防沿いは桜の名所として知られ、4月上旬には浮島で宇治川桜まつりが開かれています。桜のシーズンが終わるころには「平等院鳳凰堂」に”うす紫色”の藤が”甘いやさしい香り”とともに美しく咲きます。
周辺には日本最古の神社建築「宇治上神社」と藤原氏が極楽浄土をこの世に具現化しようとした「平等院鳳凰堂」があり、双方とも世界遺産に登録されています。
紫式部”源氏物語”の舞台
”源氏物語”は平安時代中期に作られた長編物語。紫式部にとって生涯で唯一の物語作品で、主人公の光源氏を通して平安時代の貴族社会を描いた作品です。
物語は全部で54帖で、45帖から最後の54帖までを”宇治十帖”といいます。
宇治橋
「宇治橋」は「瀬田の唐橋」「山崎橋」と共に日本三大古橋の一つ。646年(大化2年)に奈良元興寺の僧道登によって架けられたと伝えられ、日本で最も古い橋なのです。
”源氏物語”の最後の巻54帖(宇治十帖)で語られる”夢浮橋”(ゆめのうきはし)は「宇治橋」のこととされており、「宇治橋」の中央にある出っ張った部分が「三の間」と呼ばれ、”源氏物語”45帖(宇治一帖)の”橋姫”(はしひめ)が祀られていた場所の名残です。
”宇治の橋姫”伝説
古くからある大きな橋には、外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として”橋姫”が祀られていますが”宇治の橋姫”は”古今和歌集”や”平家物語”に登場し、”源氏物語”が書かれた時代よりも古い伝説が残されています。
嵯峨天皇の時代(809~823)ある嫉妬深い女が、夫が愛人を作ったのに怒り、貴船明神に祈願し、お告げ通りに百日間宇治川に身を浸し、生きながらにして鬼になりました。
そして憎い夫と愛人を取殺し、その後も男女を問わず取殺すので、橋姫として神社に祀ったという伝説。
”平家物語”の要約
宇治公園
宇治橋を後にして宇治川の堤防を上っていくと「宇治公園」との架け橋、「橘橋(たちばなばし)」と「喜撰橋(きせんばし)」が見えてきます。この辺りは、京都の嵐山と並び”鵜飼”で有名なところです。
このダムから上流が鵜飼が行われる場所です。
このダムは水平の制度も高く、水量・水流を計算し尽くされているようで、川の流れが急な下流に比べてダムから上流は鏡のように静まり返って見えます。
橘橋(たちばなばし)
水面が鏡のように「橘橋」を映し出しています。毎年7月の初めから9月末までこの場所で”鵜飼”が行われ、川面に映る松明と鵜匠の技を料理を頂きながら屋形船から見るのは優美なものです。
鵜飼
「宇治公園」の橘島には鵜飼小屋があり、野生から飼いならしているウミウと、ここで生まれたウミウが分けて飼育されていました。
飼育員の方が小屋を掃除中だったので、ここで生まれたウミウと野生のウミウについて尋ねてみると、野生は言う事を聞かないのと、攻撃的なので慣れるまで時間がかかるそうです。
鵜飼小屋の周りでは、近くに寄っても逃げない人慣れした”アオサギ”がエサを探しているようでした。
奇麗なは姿の野生の”アオサギ”に手の届くような距離まで近づけます。
喜撰橋(きせんばし)
「宇治公園」の中の島に架かる朱塗りの橋が「喜撰橋(きせんばし)」、橋の向こうに見えるのが「十三重石塔」。
塔の島に建つ高さ約15mの十三重石塔は国内最大の古石塔で国の重要文化財に指定されています。この塔は「魚霊供養塔」ともいわれ、鎌倉時代後期に奈良・西大寺の僧叡尊が魚の霊を供養するために造立したとされています。
宝暦6年(1756)の洪水で流された塔は明治時代の末に発見され、再建したそうです。
宇治川先陣之碑
宇治川の戦いは、木曽義仲(きそ よしなか)と源義経(みなもと の よしつね)という源氏同士の戦いで勝利したのは義経でした。
このとき、義経麾下(きか)の梶原景季(かじわら かげすえ)と佐々木高綱(ささき たかつな)が乗馬のまま渡河を競いったという出来事にちなんで建てられたのが、橘島にある”宇治川先陣の碑”です。
橘島にある“宇治川先陣之碑”は、昭和6年(1931年)に建てられたものですが、実際には現在の宇治橋よりもさらに下流であった出来事であるとされています。
朝霧橋(あさぎりばし)
“宇治川先陣之碑”の後側にある朱色の欄干の橋が「朝霧橋」で、ここを渡ると日本最古の神社建築「宇治上神社(うじがみじんじゃ)」に行くことが出来ます。