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京都|伏見稲荷大社の楼門(重要文化財)

伏見稲荷大社に参拝に訪れて初めに目に留まる建物は楼門でしょう。

今回は、伏見稲荷大社の楼門を紹介します。

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京都・伏見稲荷大社「楼門」(重要文化財)

建立:天正17年(1589年)
構造:三間一戸、入母屋造 檜皮葺

歴史

この楼門は、天正16年(1588年)6月に豊臣秀吉が伏見稲荷大社に母大政所(おおまんどころ)の病気平癒を祈願し、本復御礼(ほんぷくおんれい)の奉加米をもって天正17年(1589年)に再興されました。

その後、元禄7年(1694年)社頭(しゃとう)拡張時に西方へ5間(約9m)移設し、前方に石段が作られました。

当時の屋根は板葺きでしたが、明治14年(1881年)に檜皮葺に変更され、昭和49年(1974年)に解体修理が行われ現在の姿になっています。

命乞いの願文

この楼門には、秀吉の母「大政所殿の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加する」と記した「命乞いの願文」が伝来していたのですが、造営伝承と伝来文書との整合性に疑問がありました。ところが、昭和49年(1974年)の解体修理の際に、願文と年次が同じ「天正17年(1589年)」の墨書が発見されたことで、伝承は正しかったとされています。

楼門

楼門の「楼」は、「高く作った建物」「二階建ての建物」といった意味を持ち、高楼(こうろう)、楼閣(ろうかく)、楼門(ろうもん)など高い建築物の名の前後に付けて用いられています。

「門」は、名の通り入り口をさし、神社やお寺の入り口に「三(山)門」または「楼門」があります。これら「楼」と「門」が合わさったのが楼門といい、二階建ての門という意味を持っています。

門には、重層のものと単層のものがあり、近世では重層の門を「楼門」あるいは「三(山)門」と呼ばれていました。最近では、下層に屋根がない重層の門を「楼門」、上下層に屋根のある門を「二重門」と呼び分けるようになりました。

随身像(左大臣・右大臣)

楼門の左右には、「随身(ずいしん・ずいじん)像」(随臣とも書く)と呼ばれる等身大の像が安置されています。

随身とは、平安時代に朝廷から貴人の身辺の護衛を命ぜられた人のことで、現代風にいうと政府の要人を護衛するボディーガードと言えます。

左側を「左大臣」右側を「右大臣」と呼び、黒い衣装をまとった左大臣はお年寄で知恵を司り、赤い衣装をまとった右大臣は若者で力を司るとされていています。

日本の神道では、神を守る者として「随身」が安置されている神社が多くあり、伏見稲荷大社も楼門で神様をお守りしているのです。

左大臣
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右大臣
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右大臣・左大臣の位は

推古天皇、聖徳太子によって冠位十二階の官職・位階の色が制定され、「黒」は橡(つるばみ)と称する四位以上の装束、「赤」は蘇芳(すおう)という五位以下の装束であるため、左大臣・つまり黒い衣裳の人形が上位とされるのです。

狛狐

楼門の前には、狛犬ならぬ狛狐が左右に置かれています。北側(楼門向かって右)の狛狐は「鍵」をくわえ、南側(楼門向かって左)の狛狐は「玉」を加えています。

伏見稲荷大社には、“玉鍵信仰”と呼ばれるものがあります。

「玉」は稲荷大神の霊徳の象徴を表し、「鍵」はその霊徳を身に付けようとする願望とされており、「玉と鍵」の二つは、陰と陽、天と地といった万物が二つの働きによって生み育っていく理を表すとされています。

向かって(左)狛狐
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向かって(右)狛狐
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