世界的に有名な伏見稲荷大社の元宮ともいえるパワースポット。知る人ぞ知る「義照稲荷神社」と「稲荷命婦元宮」を紹介します。
京都市北区の船岡山には、織田信長公を祀る「建勲神社」があります。そして、その東斜面の一角に「末社義照稲荷神社」と「稲荷命婦元宮」の社が秘かに建っています。
「義照稲荷神社」は「建勲神社」の末社とされていますが、創建が709年(飛鳥時代末期)であることから、建勲神社の創建(1870年)以前から存在していたことがうかがえます。
そして、709年が創建とするならば、伏見稲荷大社(創建708年~715年/五柱の御鎮座が711年)よりも古くから、この地に祀られていたことになります。
伏見稲荷大社:708年~715年創建/ 711年五柱の御鎮座
建勲神社:1870年創建
※2021年に義照稲荷神社・稲荷命婦元宮一帯の改修工事が行われました。
建勲神社の大鳥居
「末社義照稲荷神社」と「稲荷命婦元宮」は建勲神社の境内にあるので、正面入り口ともいえる大鳥居から入るルートで案内します。
大鳥居(登録有形文化財)
木造明神型素木造(もくぞうみょうじんがたしらきつくり)
全面的建て替え:1934年(昭和9年)/大改修:2000年(平成12年)
最大高さ:十四尺三寸(7.43m)
最大幅:三十四尺(10.3m)
柱の本径:2尺三寸(0.7m)
材質:紅檜(台湾阿里山産)
樹齢:1200年以上(推定)
建勲神社の大鳥居は、明治神宮の大鳥居と同じ台湾阿里山産の檜の素木で作られた「明神鳥居」です。朱塗りでないため派手ではありませんが、木の素材の美しさを生かした自然な趣があります。
神域の荘厳な結界を構成する、この鳥居は京都府下最大の「木造明神型素木造」の鳥居なのです。
大鳥居正面に、稲荷社に向かう参道(階段)があり、朱塗りの鳥居を3つ潜ると、右手に「義輝稲荷神社」と、その左奥に「稲荷命婦元宮」が建っています。
そして、その奥には「船岡稲荷大神」の社と、様々な「大神」を祀った石像がたくさん祀られています。
義照稲荷神社(よしてるいなりじんじゃ)
元明天皇和銅二年(709年)、秦氏(はたうじ/はたし)によって「五穀豊饒織物工芸の稲荷信仰」が広められたのが発祥とされています。
ご祭神は「宇迦御霊大神(宇迦之御魂大神)」「国床立大神(国之常立神)」「猿田彦大神」です。
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
稲荷大神の主祭神で稲の神様です。ご神徳は衣食と商工繁栄とされています。
古事記では須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれた神様とされていて、伏見稲荷大社の主祭神として祀られています。
国之常立神(くにのとこたちのかみ)
日本神話の冒頭部、天地創成時に出現する神様で、古事記では国之常立神、日本書記では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と表記されています。国は国土を表し、常は恒常性、立は現像の確立を意味し、ご神徳は住居安泰、病魔退散とされています。
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
日本神話によれば、天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨の際、天の八衢 (やちまた)にいて、尊(みこと)を先導した神様で、気性は荒いが情の深いお導きの神様といわれています。ご神徳は迷いを正す、交通安全厄除とされて、古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と表記されています。
猿田彦大神は伏見稲荷大社、稲荷山「二ノ峰」の中之社に青木大神として祀られています。
稲荷命婦元宮(いなりみょうぶもとみや)
義照稲荷大社の西隣の奥に建ち、伏見稲荷大社命婦社の親神「船岡山の霊狐」が祀られています。
伏見稲荷大社の由緒記集成によれば、同大社の命婦社は船岡山の霊狐が祀られていると記されていることから、白狐社(びゃっこしゃ)の御祭神である命婦専女神(稲荷大神の眷属である白狐)と「船岡山の霊狐」が同一であると推測できます。
「稲荷命婦元宮」と伏見稲荷大社の「白狐社」は命婦専女神を祀り、「稲荷命婦元宮」の方が、起源が古い事から、お稲荷さんの元宮であると考えられます。
命婦専女神は稲荷大神の眷属(神様の使い)であることに、伏見稲荷大社の白狐社の建立が寛永年間(1624年~1644年)だということを加味すると、900年余り、船岡山と伏見の稲荷山には非常に強い神霊の交渉があった事を物語っています。
稲荷の縁起
社伝によると奈良朝の昔、帰化人の秦氏が船岡山を中心として五穀豊穣織物工芸の稲荷信仰が盛んに広められたことが「義照稲荷神社」の発祥となったとされています。
「いなり」の縁起には諸説ありますが、伏見稲荷大社と関連が深いのは「山城国風土記」あったとされる秦伊侶具が有名です。
風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。
引用: 逸文「山城国風土記」
風土記によれば、伊奈利と称する所以はこうである。秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。」
「山城国風土記」に見られるように、当時は「伊奈利(いなり)」だったそうで、「伊禰奈利」⇒「伊奈利」⇒「稲荷」というのが通説です。そして伏見稲荷大社の「初午大祭」に寄与される「しるしの杉」がこの風土記による「木を植える」ことの伝承だといわれています。
伏見稲荷大社は多くの記録が残されていますが、義照稲荷神社の記録は少なく忘れられそうな存在になっています。しかし、少ない記録をたどると義照稲荷神社の方が古くからあったことが分かりました。
そして、京都の地に「五穀豊穣」を願い稲荷信仰を広めた秦氏とは、何者だったのでしょう。「新撰姓氏録」によれば「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があるようですが、真実性に疑問があり、真実は分からないようです。
まとめ
今回は、あまり知られていない京都のパワースポット「義照稲荷神社」「稲荷命婦元宮」を紹介しました。稲荷の発祥かも知れない船岡山に足を運んでみてはいかがでしょうか?
この地「船岡山」は、応仁の乱の際の西陣が城砦を築いた場所で戦場でもあり、平安京の北の基点とされ四神である「玄武大神」が祀られている場所でもあります。
近くには、一休宗純(通称:一休さん)や茶人の千利休などとゆかりの深い大徳寺。玉の輿に乗ったお玉さんが復興に尽力を尽くした今宮神社があります。
所在地・アクセスは以下の建勲神社HPで確認してください。