京都市北区の船岡山の一角に、織田信長公を御祭神として祀っている「建勲神社」があります。
その境内には、桶狭間の合戦出陣の際に、織田信長が舞ったといわれている「敦盛」の一節が刻まれた石碑があります。
織田信長公が好まれた「敦盛」は、平家物語 第9巻「敦盛最期」で語られている「一之谷の戦い」の様子を曲舞にしたもので、幸若舞の演目のひとつです。
この記事では「敦盛」の主人公の心境と、なぜ織田信長が「敦盛」を好んで舞ったのかを考察していきます。
幸若舞の「敦盛」
幸若舞「敦盛」は、源氏方の 熊谷 直実 と平家方の将 平 敦盛 の戦いの様子と、直実の辛い心境を表現した長い文章です。
全文は、こちらのサイトで紹介されています➡幸若舞『敦盛』の全文(浅草志のあとに記載されています)
以下が幸若舞「敦盛」の抜粋で、赤字の部分が「建勲神社」の石碑に刻まれている一節です。
前文(略)
去程に、熊谷、よく/\見てあれば、菩提の心ぞ起りける。「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思ひ定め、急ぎ都に上りつゝ、敦盛の御首を見れば、もの憂さに、獄門よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧を供養し、無常の煙となし申。御骨ををつ取り首に掛け、昨日までも今日までも、人に弱気を見せじと、力を添へし白真弓、今は何にかせんとて、三つに切り折り、三本の卒塔婆と定め、浄土の橋に渡し、宿を出でて、東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り、元結切り、西へ投げ、その名を引き変へて、蓮生房と申。花の袂を墨染の、十市の里の墨衣、今きて見るぞ由なき。かくなる事も誰ゆへ、風にはもろき露の身と、消えにし人のためなれば、恨みとは更に思はれず。
後文(略)
引用:岩波書店刊『舞の本』新日本古典文学大系59
「敦盛」は悲しい物語
この物語は、平安時代の末期(1184年3月20日)、一之谷の戦い(現在の神戸須磨浦公園)ことで、源氏方の武将「熊谷直実」が、敵の将、当時16歳の「平敦盛」の首を取るといったもので、直実はこれをきっかけに、生涯を悔み出家して敦盛を供養したというお話です。
一之谷の戦いでは、直実も16歳の息子「熊谷直家」が討死しているうえに、同年代の子供を手にかけなければならなかった心中を思うと、胸が締め付けられます。
平家物語第9巻「敦盛最期」には両者の立場と思いが詰まっています。
源氏軍の熊谷直実は、一之谷の合戦で敗れて、海に逃げようとしている平家の武者を探していた。波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を「まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな(卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか)」と呼び止めて一騎討ちを挑む。直実がむずと組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年だった。直実が「物その者で候はねども、武蔵国住人、熊谷次郎直実(大した者ではないが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実だ)」と名乗った後、敦盛は「名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らふずるぞ(私が名乗らなくても首を取って人に聞いてみろ。私を知っているだろうから)」と答えた。これを聞いて立派な武士だと感動した直実は一瞬この少年を逃がそうとしたが、背後に自分たちの味方の手勢が迫ってくる。自分が少年を逃がしたとしてもどのみち少年は生き延びることはできないだろうと考えた直実は「同じくは直実が手にかけ参らせて、後の御孝養をこそ仕り候はめ(同じことなら直実の手におかけ申して、死後のご供養をいたしましょう」と言って、泣く泣くその首を斬った。
平家物語の要約
熊谷 直実のその後
敦盛を討った直実は「切腹するか、手足の一本も切り落とそうか」と死ぬほど辛い思いをしていたのです。
そして1193年頃、浄土真宗の高僧である法然の弟子となり、後世は法力房 蓮生という法名で、たくさんのお寺などを京都などで創りました。
だれもが、一度は見たことがあるのでは? 馬に後ろ向けに乗っている人の肖像。この人物が力房 蓮生です。
蓮生の逆馬(さかうま)
蓮生は「行住坐臥、西方に背を向けず」(往生礼賛)という文を深く信じていたのだろう、かりそめにも西に背中を向けるようなことはしなかった。それで、京都から関東へ下る時にも、西に当たる京都に背を向けないように、馬の鞍をさかさまに置かせ、馬の頭の方に背を向けて乗り、馬子に馬の口をひかせて下向したという。
引用:東方出版『熊谷直実』梶村昇著
埼玉県JR熊谷駅の北口には、熊谷直実が勇敢な武将であった頃のブロンズ像があります。
勇敢な武将「熊谷 直実」と、悟りを開いた「法力房 蓮生」感慨深いものがあります。
信長公における「敦盛」の意味
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、
ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか桶狭間の合戦出陣に際し織田信長公が舞われたという「敦盛」の一節
「敦盛」に出てくる「人間五十年」とは、単純に人間の寿命が50年という意味ではありません。これは、後に続く「下天の内をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり」を読み解くことで深く理解できます。
ここでいう「下天」とは、仏教の教えである6つの世界(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道)のうち、天道(天上界ともいう)で最も劣っている世界を指します。
そして「下天」の一晩が、人間の住む人間道(人間界ともいう)の50年に相当することから、人間の一生は非常に短くて儚いという意味になります。
これは「天下統一」という大きな夢をかなえようとしている信長公にとっては、あまりにも一生が短いと痛感していたことと一致したのだと思います。
そして「ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」とは「生まれてきた者は必ず死ぬ」という意味で、信長公が出陣の際に、これを舞うということは「滅ぼせない敵はいない」と勝利に対する強い意志の表れでもあり「自分もいつ死ぬかわからない」と覚悟の表れでもあったと思われます。
これは「平家物語」のテーマ「諸行無常」「盛者必衰」に共通するところで、人生の儚さを感じさせます。
信長公が熊谷 直実と平敦盛の戦いも知ったうえで「敦盛」を好んだ理由は、「人はそれぞれの立場で成し遂げなければならない事がある。そして人は必ず死ぬことを知り覚悟しなければならない」と考えたからだと推測しています。
「天下統一(政治)を行うための命を懸けた使命感!」素晴らしいと思います。
まとめ
「敦盛」は、熊谷直実と平敦盛の戦いを通して、その人の立場からなる使命と、本来持ち合わせている愛情との葛藤を如実に表現した物語だと思います。
また、自分の置かれている立場と重ね合わせた信長公は、物語に感銘を受け、覚悟を決めるために出陣の前に「敦盛」を舞ったのではないでしょうか。
武将にとっては「生きる死ぬ」が当たり前の戦国時代、なすべき使命があり、なすためには人を傷つけることになる、というような葛藤があって、優しさや愛情、慈悲など、人としての大切な思いを心に刻んでいたような気がします。
現代社会においては、たとえ使命であっても人の命を奪うことはありませんが、目的達成のために、言動を通して間接的に攻撃し、人を傷つけている場合があります。
そして、近年では「金のため」といった風習がだんだんと強くなり、徐々に人間らしさを失っていっているように感じます。聖人のようになる必要はありませんが、人を大切にする気持ちだけは忘れてはならないと思います。