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幸せな人生というものは「縁によって決まる」といっても過言ではありません。なぜなら、今の自分を取り囲むすべてが「縁」によって生まれたものだからです。
自分にとっての「良縁」と「悪縁」を取捨選択することは重要なことですが、「縁」というものは自分の力だけではどうにもならない、「めぐり合わせ」というものがあります。
生涯の生活をともにする結婚相手や、一生打ち込むことのできる仕事は、ある程度の時間がたたないと「良縁」だったのか「悪縁」だったのかがわかりません。そして、何より大切なのは「健康であること」ですが、これも食材や料理する人たちとの出会いによって大きく変わります。
そして「良縁」を結ぶためには、まずは「悪縁」を断ち切らなくてはなりません。それは、せっかく良い縁に恵まれても、「悪縁」があると、「良縁」を結ぶ邪魔をするからです。
このように「運」のような力が働く「縁」は、普段感じることのできない、何か不思議な力が作用しているように思います。
そこで、今回は「縁切り」ならここといわれる、京都屈指のパワースポット『安井金比羅宮』を紹介します。
「縁切りだけ?」と思われたかも知れませんが、御祭神の崇徳天皇(崇徳上皇)は「幸せな男女の妨げになるすべての悪縁を断ち切る」とされているので、縁結びのご利益もあります。
安井金比羅宮の歴史
安井金比羅宮は、飛鳥時代に藤原鎌足が一族の繁栄を祈願して、一堂を創建したのが始まりとされています。当時は紫色の藤を植えたことから「藤寺」と称されていました。
時代は下り、崇徳上皇がこの藤を好んで、寂れていた寺の堂塔を改修し、寵愛した阿波内侍を住まわせたそうです。
その後、崇徳上皇は保元の乱(1156年)に敗れ、讃岐(現在の香川県)に流されることとなり、1164年(長寛2年)讃岐で亡くなりました。
崇徳上皇の死後、都に様々な不幸が起こったので、崇徳上皇の恨みではないかといううわさが広がり、怨霊として恐れられました。これが、菅原道真と平将門の怨霊と並んで「三大怨霊」の一つとして知られています。
そして1177年(治承元年)、大円法師が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇の霊が現れ、衰退していた「藤寺」の往時の盛況を示したことで、安井金比羅宮の起こりとなった光明院観勝寺が建立されました。
光明院観勝時は、応仁の乱の兵火によって荒廃しましたが、1695年(元禄8年)に京都市の太秦安井にあった蓮華光院をこの地に移し、崇徳上皇(崇徳天皇)に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったそうです。
これにより『安井の金比羅さん』の名で知られるようになり、明治維新の後には『安井神社』と改称、更に『安井金比羅宮』と名を改め現在に至っています。
縁切りの由来
『安井金比羅宮』が縁切りの祈願所として信仰されているのは、崇徳上皇が戦いにより愛する阿波内侍と別れざるを得なかった悲しみで、讃岐の『今刀比羅宮』で欲のすべてを断ち切り、参籠(おこもり)されたことにあります。
そして、そのような崇徳上皇の思いが、幸せな男女の妨げになるすべての悪縁を断ち切るとされ、縁切りの祈願所となったのです。
縁切り縁結び碑いし
安井金比羅宮の境内には、切実な願いを書いた絵馬が重なりあって掛かっているのが目につきます。その中でもひときわ目を引くのが、白いお札で覆われた奇妙な巨石です。
これが「縁切り縁結び碑」と呼ばれるもので、碑の中央に開いた穴に神さまの力が注がれているといわれています。
縁切り縁結び祈願の手順
縁切り縁結びは「縁切り縁結び碑」の中央の穴をくぐって祈願します。その手順は以下の通りで、くれぐれも入り方を間違えないようにしてください。
- 形代(身代わり札)に願い事を書きます
- 碑の表から穴をくぐり抜けます(これで悪縁が切れます)
- 碑の裏から穴をくぐって表に出ます(これで良縁が結ばれます)
- 最後に、願い事を書いた形代を碑に貼ります
良縁に結ばれた夫婦や恋人同士の参拝には障りなく、縁が切れることはないとのことです。
アクセス
住所
〒605-0823 京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70
交通案内
◎JR・近鉄
- JR新幹線・東海道本線・近鉄「京都駅」から
- 市バス206系統北大路バスターミナル行、「東山安井」下車、南へ徒歩1分
◎京阪電車・阪急電車
- 京阪本線「祇園四条」駅から徒歩10分
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