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京都の今宮神社で玉の輿に乗った「お玉さん」に出会う

京都の北区にある「今宮神社」といえば、玉の輿に乗った八百屋の娘、桂昌院(お玉さん)を思い浮かべる人も多いことでしょう。
平成24年に「お玉さん」のレリーフが設置された頃より「玉の輿神社」として知れ渡り、「名物のあぶり餅を食べて、ご利益にあやかろう」といった事も囁かれています。

近年では経済的な理由から結婚できない人が多く、私の周りでも「お金が貯まるまで同棲生活」「お金が貯まるまで子供を作らない」といった人が多くいます。
みなさん将来に不安がありますよね。

だれもが「白馬に乗った王子様が私を迎えに来てくれる」といった夢を見たことがあるでしょう。
でもそれが現実になったとして幸せになれるのでしょうか?
「お金」が人を幸せにするのでしょうか?

疑問がいっぱいあります。

お玉さんの生涯は幸せに満ち溢れたものだったのでしょうか。
まずは、その経緯を紹介しましょう。

京都で生まれた❝シンデレラ❞お玉さんの人生は運命か宿命か

京都堀川出水を西に入った八百屋の次女として生まれたのが「お玉さん」。10歳のときに父の仁左門が亡くなると、お玉を連れて母が本庄宗利(二条家の家臣)の後妻になりました。
これにより、身分が商人から武士になったのですから強運の持ち主だったのでしょう。

さらに本庄家の紹介で公家出身の尼僧(後の徳川将軍家光の側室、お万の方)の侍女となりました。

なんというか、人の出会いは大切ですね。「運」も「不運」も人が運んでくるとはこの事。私も周りの人たちのお陰で助けられたり、うまく行かなかった時もあります。
でも、お玉さんは私たちと違い母親についてゆくしか選択肢がなかった。宿命のような気がします。

尼僧が徳川将軍家光の側室になったのは、伊勢にある慶光院という格式の高い寺院の責任者なったことで江戸へ挨拶に行った時の事、なんと「家光が尼僧に一目ぼれ♡」したことが始まり。
大奥入りした尼僧は「お万の方」と呼ばれ
、当時13歳のお玉さんも尼僧の侍女として大奥で一緒に暮らすことになりました。

尼僧はとても奇麗だったのでしょうね。女性に限らず容姿は大切だと思います。

そして、18歳になったお玉さんは家光にみそめられ、側室の一人となり「お玉の方」と呼ばれるようになり、やがて20歳になった頃「綱吉」を出産しました。

家光の死去で「家綱」が4代将軍に就任しましたが40歳で病死。その後、5代将軍に就任したのが「お玉の方」の子供「綱吉」です。

5代将軍「徳川綱吉」は天下の悪法「生類憐みの令」を作った事で知られています。

お玉さんが生まれてから「綱吉」を生むまでは、宿命でしょう!

父親の死(10歳)から「綱吉」出産(20)歳。
この10年間、本人が選択した人生ではありません。
幼い頃から厳しい躾、自分の意志ではないだろうと思える側室になり子供を産む。

傍目には、羨ましく思える人生ですが、本人はどうだったのでしょうか?

「お玉さん」から「桂昌院」となり世のために尽くす

家光の死後、奈良の知足院で仏門に入り「桂昌院」と名乗るようになり。綱吉(当時の名は徳松)と学問に打ち込んでいた。「家綱」が死んだことで「綱吉」が将軍になり、親子そろって江戸にもどった。

それから「桂昌院」は将軍の実母であることから、大奥ばかりか政治にまで口を挟むようになった。
天下の悪法「生類憐みの令」を作ったのは、知足院の住職「隆光」が「桂昌院」に与えた助言が基になったともいわれている。

「桂昌院」は息子の「綱吉」とともに殺伐とした武家社会から、慈悲深い平和な社会を気づきたかったのでしょう。その思いが強すぎ「生類憐みの令」も行き過ぎた政策になったのではないでしょうか。

晩年の桂昌院は、京都の社寺の復興に尽力をつくしています。中でも生まれ育った西陣には特別の思いがあったに違いありません。
そのお陰で当時荒廃していた今宮神社を見事に復興させています。

お玉さん、本当は幼少期に暮らしていた京都西陣に居たかったのではないでしょうか。
そして、「玉の輿」とは私たちが思っているような気楽なものではなかったと思います。