京都市北区にある「今宮神社」といえば、「玉の輿」の語源として知られる八百屋の娘「お玉さん」(後の徳川綱吉の母「桂昌院」)を思い浮かべる人も多いことでしょう。
平成20年に、「お玉さん」のレリーフが設置された頃より、「玉の輿神社」として知れ渡り、門前菓子の「玉の餅(あぶり餅)を食べて、「お玉さん」(桂昌院)のようなご利益にあやかろう」といったことがささやかれています。
しかし、現実は経済的な理由から結婚できない人が多く、私の周りでも「お金が貯まるまでは同棲生活」「お金が貯まるまでは子供を作らない」といった、人が多くいます。でも、みなさん幸せそうで、思い思いの人生を楽しんでいるように見受けます。
ところで、だれもが一度は夢みたことのある「白馬に乗った王子様が私を迎えに来てくれる」ということが現実に起こったらどうでしょうか?
「ヤッター!」と喜ぶに違いないと考えがちですが、果たして本当にそうでしょうか? たしかに、通常では起こりえない幸運に恵まれて、一次的には幸せを感じるとは思いますが、あまりにも身分の違う相手との結婚となると、一生幸せに暮らせるのか? と疑問が湧いてきます。
こういった疑問を持って「お玉さん」の生涯を顧みると、だれもが羨む「玉の輿」に乗ったとはいい難い、宿命と運命に翻弄された生涯だったように思えます。
まずは、「お玉さん」が「玉の輿」に乗った経緯を紹介しましょう。
京都で生まれたシンデレラ「お玉さん」の人生
「お玉さん」の出生には、西陣織屋の娘、畳屋の娘、二条家の家司が高麗人に産ませた娘など、諸説ありますが、『柳営婦女伝系』(徳川将軍家に関わった女性の逸話や系図を乗せた書物)に記されている八百屋の娘という説が一般的に広く知られています。
いずれの説が正しいのかは定かではありませんが、「八百屋の娘」説によると、京都市堀川出水を西に入った八百屋の次女として生まれ、その名を「玉」(お玉)といったそうです。
八百屋の娘「お玉さん」が大奥入りするまで
「お玉」が10歳のときに、父「仁左衛門」が亡くなると、母は「お玉」を連れて「本庄宗利」(二条家の家臣)の後妻になります。(これにより、「商人」という身分から「武士」になったというわけです)
さらに、本庄家の養女になった「お玉」は、公家出身の尼僧として、永光院(後の徳川家光の側室「お万の方」)の待女(上流階級の婦人に個人的に仕えて雑用や身辺の世話をする女性)となります。(これで、「武家の娘」から「公家出身の尼僧」になったのです)
それから、永光院が伊勢にある慶光院という格式の高い寺院の責任者になったことで、江戸の将軍家に挨拶に行った際、なんと徳川将軍の「家光」が尼僧の永光院に「一目ぼれ」してしまったため、徳川家光の側室「お万の方」として大奥入りしたのです。(尼僧が将軍家の側室? と思いますが…)
もちろん、永光院の待女であった「お玉」(当時13歳)も大奥で一緒に暮らすことになります。のちに春日局(徳川家光の乳母)の目にとまり「秋野」という候名(宮仕えの間に用いる呼び名)で、局の指導を受けるようになります。(八百屋の娘が、わずか3年で大奥入りしたのです)
【要約】「お玉」が大奥入りするまでの経緯
- 「お玉」10歳の時に父「仁左衛門」が亡くなる
- 母が「本庄宗利」の後妻になる(「お玉」は本庄家の養女となる)
- 本庄家の紹介で永光院(のちの「お万の方」)の侍女となる
- 永光院に連れられ、江戸に挨拶にいった際、徳川家光が永光院に「一目ぼれ」
- 徳川家光の側室となった永光院は「お万の方」となり、「お玉」を連れて大奥で暮らす
徳川家光の側室となり、5代将軍「綱吉」の実母になった「お玉さん」
18歳になった「お玉」は、家光に見初められ、側室の一人となり「お玉の方」と呼ばれるようになります。そして、20歳で「綱吉」を出産しました。
その後、家光の死去にともない「家綱」(家光の長男)が4第将軍に就任したこともあってか、奈良の知足院で仏門に入り「桂昌院」と名乗るようになり、綱吉(当時の名は徳松)とともに学問に打ち込んでいたそうです。
それからしばらく経ってから、「家綱」が40歳という若さで病死したため、「綱吉」が5代将軍に就任することになったのです。(「家綱」が病死しなければ、親子静かに暮らせていたのかもしれませんね)
そして、「綱吉」とともに江戸にもどった「桂昌院」は、将軍の実母であることから、大奥ばかりか政治にまで口を挟むようになります。
天下の悪法「生類憐みの令」
5代将軍「徳川綱吉」は、天下の悪法「生類憐みの令」を作ったことで知られていますが、これの基となったのは、知足院の住職「隆光」が、「桂昌院」に与えた助言だったといわれています。(隆光は、京・奈良の寺社の再建を綱吉・桂昌院親子に奨めた人物でもあり、幕府の財政悪化の遠因ともなったともいわれており、綱吉の死去とともに失脚)
「桂昌院」は息子の「綱吉」とともに、殺伐とした武家社会から、慈悲深い平和な社会を気づきたかったのでしょう。その思いが強すぎ「生類憐みの令」も行き過ぎた政策になったのではないでしょうか。
晩年の桂昌院|今宮神社の復興
晩年の桂昌院は、京都の社寺の復興に尽力しています。中でも生まれ育った西陣には特別の思いがあったに違いありません。そのお陰で、当時荒廃していた今宮神社を見事に復興させています。
今宮神社、南の楼門を入ってすぐ右側に手水舎があります。石造りの手水鉢には元禄七年と彫られており、「お玉さん」が「社殿を造営・神領を寄進」した年代のものだと思われます。
また、手水の水も当時に掘られた「お玉の井」から湧出る水で、その地下水は門前菓子の「あぶり餅 一和」の井戸と同じ水脈です。(「あぶり餅 一和」の井戸は見学することができます。詳しくは、こちらのページ➡京都|今宮神社の名物「あぶり餅」の歴史と「一和」と「かざりや」の違い)
境内、中央参道の西側(稲荷社の東)に、平成20年に設置された「桂昌院」のレリーフがあります。このレリーフの下には、「お玉さん」が「玉の輿」に乗った経緯と「桂昌院」と称してからの功績などの説明書きが簡略に記されています。
桂昌院(お玉の方)
桂昌院は、寛永五年(1628)、西陣で八百屋の次女に生まれ、名を玉といった。
その後公家二条家に出入りの本庄宗利の娘となり、関白家の鷹司孝子に使えたが、
やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で使えている
うち、春日局に認められて家光の側室となり、後に5代将軍となる綱吉を生んで
その生母となり、晩年には従1位に叙せられ、世に畏敬されつつ、幸福のうちに、
宝永二年(1705)七十九才で没した。桂昌院は、終生神仏を敬うこと深く、報恩感謝の心厚かったが、とりわけ西陣の
産土の神の坐す今宮神社が、当時荒れているを嘆き、元禄七年(1694)から、時の
奉行に命じて、社殿を造営・神領を寄進。そのため神域は面目を一新したという。
また祭礼も、途絶えていた「やすらい祭」を復活させ、「今宮祭」には、御牛車・鉾など
を寄進、また御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、大いに復興に努めたので、祭は
往時を凌ぐほどの盛況を取り戻した。更に元禄十二年(1699)には、江戸護国寺の
地に今宮の神を文祀して今宮神社とし、毎年今宮祭を祭行したと伝えられている。
(文京区音羽町に現存)こうした桂昌院の業績は、没後三百年余年を経た今日でも、神社中興の祖として、
その遺徳を讃える産子が多い。また、一面、一介の市井人から、身を起こし乍ら、所謂
「玉の輿」を昇りつめた類まれな女性として、その生涯を偲慕する人々も少なくない。平成二十年四月 宮司 佐々木 従久
「お玉さん」は幸せだったのか?
10歳で父親が亡くなり、13歳で大奥入りを果たすまでの「お玉さん」は、子供であったことから自分で選択した人生ではなく、生まれ持った宿命だったような気がします。
その後、家光の側室になり「綱吉」を出産し、5代将軍の実母となって、政治に関与するまでに至ったのは、自分の意志をも超越した、運命だったのではないでしょうか。
そして、晩年の「桂昌院」こそが、本来の「お玉さん」だったと思います。それは、出身地の西陣「今宮神社」の復興に尽力したことでもうかがえます。きっと、生まれ育った地元に戻りたかったのでしょうね。
これらを基に考察すると、好き好んで「玉の輿」に乗ったわけでもなく、宿命と運命に翻弄された人生だったといえるのではないでしょうか。
このような出来事はさておき、自分の意志と関係なく「玉の輿」に乗った「お玉さん」、本人は幸せだと実感していたのだろうか?
もし、「お玉さん」が成人するまで、父親が健在で八百屋の娘のままであったとしたら? と想像してみると、裕福ではないにしても自由で、自分の思い通りの人生になっていたはずです。
「お玉さん」は幸せだったのか? は本人にしかわからないことですが、少なくとも、生まれ育った京都の西陣に対しては思うところがあったようです。
まとめ
傍目には、羨ましく思える「玉の輿」に乗った人生ですが、私たちが考えているように気楽なものではないようです。たとえ裕福でなくとも、好きな人と一緒に暮らし、何事も自分たちの意志で決められる自由というものは、人にとって大切なことではないでしょうか。
堀川出水の西側に、「お玉さん」に関する情報(痕跡)があるか、実際にくまなく探索してみたのですが、それらしきものは見当たりませんでした。