紅葉の名所として知られる東福寺。その三門の前にある思遠池(放生池)の様子です。全景ではわかりにくいのですが、蓮の蕾がたくさんできて、これからが見頃になりそうです。
蓮の花の見頃は7月上旬から8月中旬で、日の出とともにゆっくりと咲き始め、午前8時~9時頃に満開を迎えます。そして、その後ゆっくりと蕾に戻ります。
蓮の花の寿命は4日間ほどで、午後になっても開いている花は、蕾に戻るだけの力がなく、やがては散っていきます。そのため、美しい蓮の花びらが見られるのは午前中だけです。
仏教の世界では極楽浄土に咲き乱れる花として信じられており、多くのお寺には「放生池」という名の蓮池があります。そして、蓮の花は仏壇に飾ったり、仏像が蓮華座の上に載っていたりと、仏教と深い関わりがあります。
仏教の象徴ともいわれる蓮の花。それにはどんな意味があるのでしょうか?
仏教の世界では「蓮の花」を人に例え、「自分らしく生きる」尊さ、人が大切にしなければならない「心の持ち方」を説いています。
人の悩みは自分が作りだすものです。この教えを知ると「心の持ち方」が変わり、人間関係など、日頃の悩みを解決する手助けになります。
仏教と蓮の花
なぜ、「蓮の花」が仏教の世界で象徴といわれるような特別な存在として扱われているのかというと、蓮は泥の中から出てきても、汚れることなく奇麗な花を咲かせる様子が仏教の教えに通じるとされているからです。
そして、大乗仏教の聖典の一つである「仏説阿弥陀経」には、極楽浄土には車輪のように大きないろんな色の蓮が美しく輝き、その香りは気高く清らかだとあります。
池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。
引用:(『註釈版聖典』一二二頁)
この一文は、極楽浄土の風景を描写しているのですが、「青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光」は花の色を表現しているだけのように思えますが、これは人それぞれの個性をも表しているのです。
つまり、「ありのままの自分」で光り輝くことの尊さと、個性ある様々な人もいることを理解することが大切だと説いているのです。(古来から、人間関係に対する悩みは絶えないようですね)
これに関連して、人の心のあり方を説いた「蓮華の五徳」という教えがあります。それは「蓮の花の五つの特徴」を人の心に置き換えて、正しい心のあり方を具体的に説明した教えです。
蓮華の五徳(れんげのごとく)
蓮華の五徳は蓮の花の特徴を表したもので、カッコ書きはその特徴から人が大切にしなければならない心の持ち方を示したものです。
- 淤泥不染の徳:泥に染まらない美しい花を咲かせる(どんな環境にいても清らかに生きる)
- 一茎一花の徳:一つの茎に一つの花が咲く(唯一無二の自分を大切に生きる)
- 花果同時の徳:花が咲くと同時に実がつく(心を大切に育てていく)
- 一花多果の徳:一つの花にたくさんの実がつく(多くの人を幸せにできるようにする)
- 中虚外直の徳:中が空洞で真っ直ぐに伸びた茎(欲に支配されずに真直ぐに生きる)
それでは、仏教の教えによる「蓮華の五徳」を詳しく紹介します。少し長くなりますので、興味があれば読んでみてくださいね!
淤泥不染の徳(おでいふせんのとく)
「淤泥不染の徳」とは、仏教の教えにおいて、心や精神が物質的な世界や煩悩によって汚れず、清浄な状態を保つ徳を指します。
「淤泥」は、泥や汚れを意味し、「不染」は、「染まらない」という意味です。この言葉の意味するところは、仏教の修行者が内面的な清浄さを保ち、煩悩や執着に染まらず、心を清らかな状態に保つことを指しています。
仏教では、物質的な欲望や執着が苦しみや迷いの根源になると考えられています。したがって、「淤泥不染の徳」は、煩悩や執着から解放され、清浄な心を保つことを意味します。これは、忍辱徳(苦しみに耐える徳)や無漏徳(煩悩のない清浄な徳)とも関連しており、仏教の修行の一環として重要視されています。
淤泥不染の徳を具体的に実践するためには、瞑想や思考の観察を通じて自己の心を知り、煩悩や執着に気づき、それらを超越することが求められます。このような修行を通じて、心を清浄な状態に保ち、智慧や悟りを開くことが目指されます。
一茎一花の徳(いっけいいっかのとく)
「一茎一花の徳」とは、仏教の教えにおいて、一本の茎に一輪の花が咲くように、一つひとつの瞬間や存在を大切にする徳を指します。
「一茎」は、一本の茎を意味し、「一花」は、一輪の花を意味します。この言葉の意味するところは、仏教の教えの中で、過去や未来に執着するのではなく、現在の瞬間や一つひとつの存在を深く見つめ、その価値と喜びを認識することです。
仏教では、人間の苦しみや迷いは、過去への執着や未来への期待から生じると考えられています。このため、「一茎一花の徳」は、過去や未来にこだわるのではなく、現在の瞬間を生きることの重要性を教えています。
この徳を実践するためには、マインドフルネスや瞑想のような実践が重要です。自分自身や周りの環境に意識を集中し、現在の瞬間を全身全霊で感じることで、一つひとつの瞬間や存在の美しさや豊かさを深く理解し、喜びを感じることができます。
「一茎一花の徳」は、仏教の修行の一環として、執着や欲望からの解放を促し、現在の瞬間の価値や喜びを実感することで、心の平穏や豊かさを追求することを目指します。
花果同時の徳(かかどうじのとく)
「花果同時の徳」は、仏教の教えにおいて、花と果実が同時に咲き、成熟するように、修行の過程で修得した徳を即座に実現することを指します。
「花」は花が咲くことを意味し、「果」は実を結ぶことを意味します。この言葉の意味するところは、仏教の修行者が徳を積み重ねる過程で、修得した徳を直ちに実践し、成果を得ることの重要性を教えています。
仏教における修行の目的は、悟りや覚醒への到達であり、それには様々な徳を修得することが求められます。そして、「花果同時の徳」は、徳を修得した後に実践するのではなく、修行の過程で学びながら徳を実現することを強調しています。
具体的には、修行者は慈悲や忍耐、無我の境地など、仏教の教えに基づく徳を修得していきます。そして、「花果同時の徳」の観点では、修得した徳を修行の過程で実際に実践し、他者への利益や自己の成長につなげることが重要です。
この徳を実践するためには、日常生活の中で仏教の教えに基づいた行動や思考を意識的に取り入れることが必要です。自己中心的な欲望や執着にとらわれず、慈悲の心や無私の行動を通じて他者への利益を追求し、自己の成長と覚醒を促すことが目指されます。
「花果同時の徳」は、修行の旅の中で修得した徳を現実の生活に活かし、他者との関係や社会に貢献することで、仏教の教えの実践を成し遂げることを意味しています。
一花多果の徳(いっかたかのとく)
「一花多果の徳」は、仏教の教えにおいて、一つの花から多くの実が結ぶように、一つの善行や修行から多くの功徳が生まれることを指します。
「一花」は一つの花を意味し、「多果」は多くの実を意味します。この言葉の意味するところは、仏教の教えの中で、一つの善行や修行の行為が、多くの良い結果や功徳をもたらすことを教えています。
仏教では、行為の結果としての功徳や報い(因果応報)の法則が重要視されます。したがって、「一花多果の徳」は、一つの善行や修行が様々な良い結果や功徳をもたらすことを指しています。
具体的には、例えば、慈悲の行為や他者への利益を追求する善行が、他者の幸福や自己の成長に寄与するだけでなく、自己の心の浄化や悟りへの道にも繋がるとされます。また、修行者が修行の過程で培った徳が、他者の救済や教えの普及につながり、多くの人々に利益をもたらすことも考えられます。
この徳を実践するためには、自己中心的な欲望や執着を超えて、善行や修行を継続的に行うことが重要です。自己の利益だけでなく、他者や社会全体の利益を考慮し、善行や修行の行為を通じて多くの実を結ぶことを目指します。
「一花多果の徳」は、仏教の教えにおいて、一つの行為が広い影響や豊かな成果をもたらすことを示し、修行者にとっては自己の成長や覚醒につながる重要な徳とされています。
中虚外直の徳(ちゅうこげちょくのとく)
「中虚外直の徳」は、仏教の教えにおいて、内面の虚心さと外面の直言さを持つ徳を指します。
「中虚」は内面的な心の虚心さを意味し、「外直」は外面的な態度や行動の直言さを意味します。この言葉の意味するところは、仏教の教えの中で、内なる心の真実性と外部への率直な態度を持つことの重要性を教えています。
「中虚」は、自己の心を虚心に保ち、傲慢や執着から解放されることを指します。自己中心的な欲望や執着にとらわれず、心を空にして受容し、柔軟で開放的な態度を持つことが求められます。
一方、「外直」は、自己や他者に対して真実を率直に伝えることを指します。相手を欺かず、表裏のない態度で接し、心からの直言を行うことが重要です。ただし、直言には思いやりや慈悲の心を持ちながら行うことが求められます。
「中虚外直の徳」は、内面の虚心さと外面の直言さを組み合わせることで、真実性や誠実さを追求し、他者との関係を清浄で建設的なものにすることを目指します。また、この徳を通じて自己の成長や覚醒を促し、他者への利益や社会への貢献を果たすことも目指されます。
「中虚外直の徳」は、仏教の修行の一環として、自己の内面と外面の調和を追求し、真実と誠実さを実践することを教えています。
東福寺の蓮池はなぜ思遠池(しおんち)と呼ばれているのか?
お寺にある蓮池の多くは放生池と呼ばれていますが、東福寺の放生池には思遠池という名前が付けられています。
放生は、生き物を生かし放つといった、慈悲の表れを意味する言葉であるため、お寺の蓮池が「放生池」と呼ばれているのは何となく理解できます。しかし、「思遠池」の「思遠」とは何を意味するのか? どうして「思遠池」と呼ばれるようになったのか? 気になりますよね!
思遠池の「思遠」とは
思遠は、中国の詩文や仏教の文献で見られる表現であり、幅広い解釈のある言葉です。その意味は「遠くを思う」や「遠くに思いを馳せる」などで、蓮池との関連がありそうでない・・・?
「思遠」について調べていると、津田さち子さんという文筆家が書かれた「思遠(しおん)」というエッセイを見つけました。
彼女も「思遠」という文字に関して模索していたようで、本書では以下のようなことが書かれています。
三十年前、紀州の古刹に掲げられた「思遠(しおん)」の文字に出会ってから、思遠が内包する世界の幽遠さに惹きよせられ、模索の旅が始まった…。
引用:津田さち子の著書「思遠」
「思遠」という言葉の意味を調べても、何か釈然としない結果になりましたが、「思遠」が「遠く」の何かを意味する言葉なら、「遠くの何か」が「極楽浄土」や「仏の世界」を指し示しているとも考えられます。
すると「思遠」=「遠くに思いを馳せる場所」=「極楽浄土」と解釈できるので、それなりに意味も見出せそうな気がします。
「思遠池」の名の由来
一節によると中国の南朝時代活躍した詩人であり、高僧でもあった鉄拐山人が「春水詩」の中で使った「思遠心中遊」という句にちなんで名付けられたといわれています。
「思遠心中遊」とは「遠くに思いを馳せる心が自由に遊ぶ」という意味を表しているようで、思遠池は遠くに思いを馳せる場所として、訪れる人々に静けさと禅の心を感じさせてくれるという意味なのかもしれませんね。
蓮の花が咲く音?
数年前、テレビの報道で「蓮の花は、ポン!という音とともに開花します。・・・・それが聞けるのは早朝の6時」と言っているのを聞いたので、翌日の早朝、夜明けと同時に近くの蓮池に行ったのですが、残念ながら音は聞こえませんでした。
その後も、「聞いたことあるよ」と言う人がいたので、その場所を教えてもらい見学に行ったのですが、何処に行っても音を聞くことができませんでした。
確かに蓮の花の蕾は、パンパンに張っていることから、開花するときは弾ける音がするような気がしますが、蓮の開花は花びら1枚づつゆっくりと時間を掛けて開くため、「音はしない」が本当です。
まとめ
仏教の教えと蓮の花の関係、東福寺の蓮池が何故「思遠池」という名が付いたのか、できる限り調査してみたのですが、まだまだ不明な点があります。
しかし、泥の中から生まれてきても、汚れることなく奇麗な花を咲かせる蓮の花は神秘的な美しさがあります。これは仏教に縁のない人にとっても心和む花であることは間違いありません。
東福寺の4月から10月末までの拝観時間は午前9時から夕方4時までですが、午前8時30分には開門しているので、美しい蓮の花を見るなら早めの時間がお勧めです。(遅くても午前中)
東福寺の「思遠池」(蓮池)は南門を入ってすぐ右側です。目の前に日本最大級の山門が目に入るので迷うことはないと思います。
アクセス
最寄り駅は京阪電鉄の「鳥羽街道駅」またはJR/京阪電鉄「東福寺駅」です。
「思遠池」に行くことだけを考えると京阪電鉄「鳥羽街道駅」が近いのですが、早朝に蓮の開花を見るのであれば、食事のできるお店が多い京都駅周辺のホテルに泊まりJR奈良線で「東福寺駅」(乗車時間3分ほど)の方がお勧めです。