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一般常識を精査して自分の常識をつくれ

子供の頃から、親や学校で「常識」らしきことを教わってきたが、何か漠然としていて納得のいく定義がないように思える。

国語辞書によると『常識とは、一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。』とある。

「普通の知識・意見は判断力」の普通とは何?・・・・漠然としている。それに「一般の社会人が共通にもつ」といえば、みんなが同じ考えをするという事なのか?

人は各々自分の知識を持ち、これを基に判断して行動している。それが、社会人が共通(みんな一緒)となると、すべての人が同じ行動をすることになり、延いては同じ人生を歩み生涯を終えることになる。それでは人生があまりにもつまらないと思いませんか?

これに対してアインシュタインは、常識とは「偏見のコレクション」と言っている。

常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。

引用:アインシュタイン

良識(りょうしき)をもつ

前述の通り、国語辞書による『常識』は曖昧な表現になっている。曖昧にせざるを得ないのは、普遍性を条件としていないところにある。言い換えれば、時代や国・地域、民族によっても違うということで、漠然とした認識をもとにつくられたものだからです。

これに対して、常識に疑問をもてる知恵が『良識』で、哲学者の三木清によれば常識の上位概念としている。

かようにして、常識というものにも二つのものが区別されるであろう。それは一方、すでにいった如く、或る閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。この場合、一つの社会の常識と他の社会の常識とは違い、それぞれの社会にそれぞれの常識がある。しかし他方、あらゆる人間に共通な、人類的な常識というものが考えられる。それは前の意味における常識と区別して特に「良識」と称することができる。例えば、「全体は部分よりも大きい」というのは常識である。それは「自然的光」によってすべての人間に知られるものであって、直接的な明証をもっている。それは知性の自然的な感覚に属している。

引用:三木清『哲学入門』

戦争をするのが『常識』の戦時中の時代に、戦争反対が『良識』だったのではないでしょうか。『常識』の意味が少し見えてきたかと思います。そして、今『常識』だと思っていることは真理なのか疑問を持つべきです。

常識でつくられた規則や仕事に疑問

学校には校則、会社には社則と決められた規則があります。規則は、その規則が決められた時代背景があり当時は十分に検証して作られたものです。

例えば、元々製造業で今はIT関係を専門にしている企業で「今日も安全に作業しましょう」といった号令で朝礼を締めくくっている。「安全に作業する」はどんな業種にでも当てはまり、決して間違ったのものではありませんが、これを作った当時は「製造作業で事故が無いように」といった意味だったそうです。

このように、その企業(グループ)に所属していれば、何の疑いもなく受け入れてしまうのです。

仕事も同じで、「先人がこのやり方でやっていた」、「昔からこうだった」と、何の疑問も持たずに同じことを同じ方法でやっている。伝統工芸のように代々受け継ぐ技術ならともかく、そうでないなら疑問を持って自分のやり方を作っていくべきです。

まとめ

常識や規則が悪い訳ではありませんが、当たり前と思い込んでいることが「危険」な状態です。

何の疑いもなく常識や規則に従って行動していると人生は好転しません。今ある『常識』も自身で真理を追究し正しいと思えば従う。間違いと思えば是正する。

自分が「正しい」と思った道を進んでいけば明るい明日が待っています。


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