魚たちにとって私は神様のような存在。
魚は水の中でしか生きられない。水槽の外に出られないから外の世界を知らない。朝に太陽替わりの照明を点けて夜には消す。みんな元気に育つようにとエサを与えると我先にとエサに飛びつく。要領のいいものは沢山食べられるが要領の悪いものは食べられずにやせ細っていく。そんな世界でも子孫をつくり、命をつないで背一杯に生きている。
地球という惑星で暮らす私たち人間も神様から見たら魚と同じような存在なのか。所詮、小さな世界に閉じ込められた人間は悲しい生き物でしかない。
これは、悲観的な考え方ではなく与えられた環境の中でいかに生きていくかを教えてくれるもの。
魚の争い
毎日エサを与えられて、なに不自由の無い環境でも争いごとはある。エサの奪い合いやメスの奪い合い。
エサを与えると、食べるより先に回りの魚を追い回し、取られないようにする強欲な魚がいる。エサに限りがあると感じる本能のせいなのか独り占めしたがる。これが原因で、残ったエサが食べられずに水槽の底に沈み、やがては腐敗して環境汚染になる。
優秀な「ろ過装置」を備えていても1年ほどで水質は悪化。放置すると死滅するため、人間の手で大掃除(グレートリセット)を行う事になる。
水槽の大きさと魚の関係
水槽の大きさと魚が占める体積(魚の数、魚の大きさ)には一定の比率がある。同じ種類の魚でも水槽が大きいと大きく育つ。そしてその比率は水槽の大きさに比例する。
魚は本能まま子供をつくるが、一定量を超えると争い(殺し合い)が起き、増えすぎることはない。これは、自分たちの環境を守ろうとする本能が成すこと。
魚の世界と人間社会の本質は同じ
水槽の中の出来事を見ているとまるで人間社会そのもの。近代化が進んだ現代社会でも、人間の本質が変わらない限り水槽の魚とかわりはない。
進化した技術は使い方次第で人間社会の悪化をより促進することになる。
- エサの奪い合い:人間社会での権力争い
- エサの独り占めから来る環境悪化:人間社会での食品廃棄物と環境破壊
- 水槽の大きさと魚の数:人口増加と戦争
- 水槽の大きさと魚の大きさ:大きな器の環境で育った人間は大きくなれる
人間には知性がある
人間には知性が備わっているが本能(本質)は魚と変わらない。知性は本能の上に被さるようにあるもので、よほどの意識を持たないと本能に負けてしまう。
最も悪い例は、知性が必要以上の私欲を生みだし環境を破壊してしまうこと。一部の人間の強欲が地球を破滅に追いやることになる。
すべての人間が末永くより良い生活を営めるように調整するのが政治だが、未だに争いごと(戦争・内乱・テロ)が絶えない。政治家は水槽の魚にエサを与える人間のような存在でない限りこの状況は変わらない。
地球の資源もそのうち枯渇する。水槽の魚と同じように人口と資源のバランスが崩れかけているのは事実だろう。
この先、人類が存続するためには必要以上の私欲(強欲)を持たずに助け合って生きること。大統領も総理大臣もみんな同じ水槽の中。どんな資産家でも「お金」をもってあの世にはいけない。人はいずれ死ぬ。生きている間に人に与えることを考えた方が良い。
成功とは、人に何かを与え感謝されることで、人によって「与えるもの」も違えば数も違う。無理をすることはない。健康に生きて、自分にできる範囲を精一杯する。それで人は幸せになれる。