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「好かれる」と「嫌われる」はセット!「嫌われる」と「認められる」はセットでない!

「男と女」「光と影」があるように、世の中はなんでもセットで出来ている。どちらか一方だけを手に入れたいと思っても、もう片方がおまけで付いてくる。「好かれる」と「嫌われる」はまさにセット。

「好かれもしない、嫌われもしない」というのは存在が無いのと同じ。人が自分を見てくれていない。言い換えれば「無視」されているのと同然。

嫌われても心配はいらない。あなたはこの世に一人しかいない個性の持ちぬ主。自信をもって生きろ。

好かれたいけど嫌われたくない

人に好かれていると感じると嬉しいもので、嫌われていると感じると辛く感じるのは万人に共通している。

「好き」と「嫌い」は紛れもないセットであるため、どちらか一方だけを手に入れるのは不可能と考えてよい。

よく考えてみたら分かるだろ。あなたも「好きな人」もいれば「嫌いな人」もいるはず。食べ物にしても奇麗に咲いている花にしても「好き嫌い」があるだろ。

意識しなくても見るもの触れるもの、感覚で認識出来るものすべてに「好き嫌い」という判別を無意識におこなっているのが人間。

自分を表現しろ

「嫌われたらどうしょう!」と考えるのは「好かれたらどうしょう♡」と考えるのと一緒。自分を表現せずにいると存在がなくなる。人は嫌われるより「無視」されるのが一番つらいことを知って欲しい。

言葉を使わない植物でさえ、花を咲かせて自分を表現しているではないか!見る人によっては「好きな花、好きでない花」と感じることがあっても「嫌な花」と思う人は少数。

自己表現とは、「私はこんな人間」と花を咲かせるのと同じように、周りの人達に周知することであって何かを押し付けるものではない。

「嫌われる」ことを恐れる必要はない。自分の事を知ってもらっていない現状は「無視」されているのと同じとすれば、嫌われたら無視すれば現状と変わりはない。

陰口を言われるようになったら一人前

「嫌われた」と感じる人が現れたら、自己表現(私はこんな人間)が出来た証拠。気がつかないかも知れないが「嫌われた」人の数だけ「好かれた」人がいるのは間違いない。

「嫌われた」からといって認めていない訳ではない。「嫌われる」と「認める」はセットで考えてはいけない。

何かを成し遂げると周りの人達は、あなたを認める。好意を持っている人達は素直に喜んでくれるだろうが、嫌っている人たちは「妬む」ことになる。

「妬み」は悪口(陰口)となって表れる。面と向き合って意見が言えない「陰口」は、嫌いだけれど認めているという事。

まとめ

嫌われたら、自分を知ってもらえた。そして嫌っている人以上に好意を持ってくれる人ができたという事。

陰口を言われるという事は、嫌っていても認めざるを得ないという事で、成果が出せたと思えば間違いはない。

嫌われたら、陰口を言われたら、「おめでとう!あなたは成長している」