PR
言語切り替え

これからどうする?老々介護

2年前まで、親の介護をするようになるとは思いもしなかった。
明けても暮れても仕事を中心に考えていて家庭を妻に任していた私。今は家事の大変さを痛感しています。

「人生100年時代」これからの生き方、人間として本当に大切な事は何???真剣に考えています。
そして、今まで家族や友人に支えられたことに「感謝」しています。

なんの抵抗もなく「今年度で退社を決断」。これからの生活は?収入は?まったく考えていません。
でも不安がないのです。なんというか「神様の言うう通り」なのです。

二人の母親

私たちには、「関節性リウマチ」で身体障碍者の実母と「大腿骨骨折」で要介護4になった義母がいます。
来年で90歳になる二人の母親は、目に見えて体力と認知機能が低下していくのが解ります。

「ボケ」が進むにつれて周りに配慮ができなくなり、どんどん頑固になっていきます。完全に「自己中」です。

これからを考えると、家族が一軒の家に住むのが理想ですが、各々の母親は今住んでいる家が自分の居場所と決めつけているので、この案はしばらく保留です。

介護が大変になった出来事

2年前のある日、台風が日本列島を通過する際に、義母を一人で置いておくのも不安であったため、私の住んでいる家に避難させました。そして翌日、義母を実家に送り届けました。(当時、義母は元気で一人で生活することに問題はありませんでした。)

その翌日、妻が母親に電話をしても繋がらない。「どこに行っているのだろう」とその時は思ったそうです。そして連絡が取れないまま3日、「おかしい!」と思った妻は様子を見に実家に戻った。

居間でうずくまっている母親を見たときは「死んでいる」と思ったそうで、すぐさま私に連絡がありました。
駆け付けた私も「ビックリ!」。「おばあさん?・・・」声をかけると、か細い声で「・・・・・?」聞き取れないが「生きている」。ひと安心ではあるが健康状態が心配。救急車を呼び病院に救急搬送。

義母は「大腿骨骨折」の痛みに耐え、飲まず食わずの3日3晩。本人も「死」を覚悟していたようでした。

医師の診断は「大腿骨骨折」「極度の栄養失調」「発見が数時間遅ければ命がなかったことでしょう」と一人暮らしをさせている事にお叱りを受けた次第です。

固定電話は棚の上、携帯電話はテーブルの上、骨折して立てない義母はなすすべがなかったのです。
何時でも連絡を取れる状態だと思っていたのですが、想像もつかない盲点があったようです。

それから3ヶ月の入院、手術で骨折は治りましたが「要介護4」になり妻が世話をすることになりました。自分の親は自分が面倒を見る。
これが、夫婦別居の始まりです。

家族の絆

毎日、会社に出社している私には時間に限界があります。朝食の準備、昼食は自分と母親のお弁当、食品の買い出しと夕食の準備。洗濯もあれば掃除もある。夜中に起こされ睡眠不足。

こんな事態を予測していた妻は、毎日のように実家から戻っては家事を手伝ってくれていました。しかし限界、過労で倒れる始末。

息子2人も、家事を手伝ってくれるので大変助かっています。でも彼らは自分の「夢」がある。
子供達には、今より「夢」に向かって進んでほしい。

私たち家族は本当に仲が良い。お互いを思いやる愛情に満ちている。
「家族に感謝」

これからの人生。そして夢

面倒をみるのは大変ですが、私たちの親。今まで育てて頂いた「感謝の気持ち」は忘れてはいけないと思う。

【夫婦の会話】

二人とも、あと10年くらい生きるんじゃない。

いやいや、奴らは魔女。あと100年

私たちのほうが先に死んじゃうね!

孫が介護??

冗談のようですが、家族みんなに聞こえるように、本当にこんな会話をしています。
妻は「ノー天気」に見えますが、苦しい時でも「明るく、楽しい」。ひょっとして、人間性は私より上手?

どんな時でも夢がある

「会社を辞める」と決めた日から、自分の人生が始まった気がする。大切なものがよく見える。人の気持ちがよくわかる。

いつ実現するか? 実現する前に、私が「くたばる」かわかりませんが、私たち家族には夢があります。
介護は拘束時間は長いが「暇」。この時間を使って「夢の実現」の準備。まだまだ、これから楽しみます。

父親が他界した日は、「あの時、あれをしとけば良かった」と思うことが沢山ありました。
介護をしている皆さん。「辛いと思えば辛い」考え方ではないでしょうか?「感謝の気持ち」を込めて出来ることをすればいいのではないでしょうか。
親たちも「生きていて良かった」と思って往生できればそれでよし!

多くの人が経験する「介護」。皆さんどのようにされているのでしょうか?
参考になる「経験談」のコメントを頂けたら幸いです。