深夜の2時、人影ひとつない東福寺周辺を歩いていると、日中と打って変わり、静かというよりお寺だらけで気味が悪い。
これが本来、お寺のあるべき姿である。そもそもお寺は、人々の先祖を供養し、生きている人たちを善の道に導くためにあるもので、イベントを組んで人を集めるテーマパークではない。
日本の税制も宗教法人に税金を課さないのは、そういった人の心に寄り添って道を説く尊いものだからである。しかし、お寺とメディアも一緒になり、景色が美しいなどと掻き立て、本来の目的をも忘れ観光客を集めて金をとる。集まった金はどうなるのか? お寺の維持管理に使っているといえばそれまでだが、必要以上に経費をかけすぎているのではないだろうか?
その昔は、寺の中を自由に歩き回り、現在国宝に指定されている建造物や仏像に触れることができた。しかし、今では人が寄り付けないように策を造り、その景観を損ねているのではないかと思ってしまう。
だが、これは寺院だけのせいではなく、そこに訪れる人々にも問題がある。それは、歴史的に重要なものを傷つけたり、持ち帰ったりする心無い人が増えてきていることにある。
人々は、何時からこのように身勝手になって行ったのか。それには何か原因があるように思う。
そこで疑問。昔の人々は身勝手ではなかったのかというと、そうでもない。ただ今のように法律だの規則だのというものが、今ほど厳しく取り締まることがなかったからかも知れない。
法律や規則は増えれば増えるほど、人の心は荒んでゆく。なぜなら守らなければならない法律や規則は、何かことが起きて、それを是正するために作ったものであるはずなのに、大切にしなければならない、本来の人の良心を無視して一人歩きするからおかしくなる。
人が人として生きるために知っておかなければならない良心をよそに、訳の分からない取り締まり。すべてを完璧に守っていれば生きていけないほどの締め付け。昔なら、ごめんなさいで済んだことでも裁判になる。
これは、取り締まりに対する項目が有りすぎるからである。
要するに、たくさんのルールを造り、取り締まりの項目を増やしていることで、温かみのある人間性をなくしているのである。
これらのルールは、だれが考えても悪いと思えるものでも、形を少し変えるだけでセーフになる。そうしてルールそのものの不備を逆手にとり、自分勝手に振る舞う輩が出てくる。
誠によく分からないのが今の世の中の常識になっている。
日本は海外に比べて、人道的で平和な民族であったが、昨今それも危うくなってきている。助け合う気持ちは薄れていくのだろうか?
心に手を当てて考えてみて欲しい。だれかの役に立てば嬉しいと思う気持ちがあればまだ大丈夫。